50年後の
社会を
見据えて、
山を守る。
ずっと昔から、サステナブル。
林業家であり、ときがわ町議会議員でもある野口守隆さん。ご先祖は明治末期にこの地で暮らし始め、代々林業に携わってきました。現在、野口さんは5代目として山を守る日々を送っています。
「農業は⼀年周期で結果が出ますけれど、林業は最低で50年の時間が必要になります。息の⻑ い話です」
苗⽊を植え、育て、主伐する――。⽂字にすればいともたやすく感じますが、スギやヒノキを⽊材として収穫するまでに要する時間はおよそ半世紀。しかも、⼭を⾃然にまかせて放置してはただ荒れ果ててしまうのみ。そこでは、定期的な間伐(⽊を間引いて、樹⽊の⽣育を促すこと)や枝打ち(節の無い⽊材をつくるため、⽊の枝を切り落とすこと)など、⼈の⼿が⽋かせないのです。
「だからこそ、私たちは⼭や森林をとても⼤切にしています。それは、半世紀上も前の⼈々が、今という未来を考えて育ててくれたものですから」
さらに、⼿⼊れされた⼭は、さまざまなメリットを私たちにもたらしています。
適切な間伐を⾏うことで、下草が繁茂。それは⼟砂崩れの防⽌や、⽔源を涵養する機能が⾼まり、多様な⽣物が息づくことにつながります。
野⼝さんの⼭でも⼿⼊れを繰り返し、伐採や運搬を⾏っています。
「なにより、いい⼭は空気が違いますよ。⾵がよく通る。特に春の息吹は⼼地よく感じて、なんともいえなく幸せな気持ちになるんです。特に、⾸都圏から来る⼈たちを⼭に案内すると、みなさん『空気がおいしい』と⾔ってくれますね」
健康な森は、それ⾃体が⼈間にとって憩いの場となるのです。
ときがわが「⽊のまち」である理由
ときがわ町は、昔から林業で栄えた町でした。今もこの地で厚く信仰を受ける慈光寺が、鎌倉時代に幕府より庇護を受けたことで、多くの⼯匠たちが住み着き、優れた建具の技術が広まります。
その後、⾼まる建具の需要に対し、最盛期には⼤⼩100社以上の事業所が、⼀⼤⽣産地として⾸都圏を中⼼に出荷を⾏ってきたのです。
「私が⼭を継いだ頃は、伐採から製材に⾄るまでを町内で完結できていました」と野⼝さん。
まさに、地域で⽊材資源や産業が循環する地域だったのです。
しかし現在、輸⼊⽊材に押されて、林業や⽊材関連産業は厳しい状況にあるのも事実。それでも、野⼝さんはときがわ材の地産池消を“推し”ます。
「ときがわで育った⽊は、この地域の気候や⾵⼟で育っている。だから、この町で使うのが⼀番合理的なんです」
実際、町では公⽴⼩中学校をはじめとする公的な施設の内装を⽊質化しています。
これからときがわ町のあちこちに、ときがわ材による家が増えていったら、それはきっと素敵な町並みになることでしょう。
求む!⼭の未来を切り拓くアイデア
⼭主として、当たり前に「次の世代」を考える野⼝さん。間伐材の⼩規模バイオマス発電への活⽤など、アイデアを思い描いている。
「ただ、やはりたくさんの⼈に⼭の未来を考えていただけたら」と野⼝さんは呼びかける。
「きっかけはどんなことでもいい。たとえば、うちの⼭を使ってツリーハウスやドッグランをやりたいという⽅がいれば相談に乗りますし、フィールドを利⽤したいという⽅がいれば喜んで貸します。⼭はみんなのものという意識を持ってもらえればうれしいですね」
実際、町外から来る⼭好きの⼈々とふれ合い、若い世代のアイデアに感⼼することが少なくないという。
「⼥性も⼦ども⼀緒になって⽊とふれ合っているのを⾒ると、もはや⼭は⼀部の⼈のためのものではない。同じように、⽊を建築材として使うだけでは未来は明るくありません。⼭の総合的な機能を理解していただき、そのうえで楽しんでほしいと思っています」
愛してやまないときがわ町と、ときがわの⼤⾃然。野⼝さんはやさしく⽊を撫で、笑います。 「たまに東京に出ていくととても疲れちゃう。そんな時、⼭で深呼吸すると、ああ帰ってきた、ここはいいところだなあ、って改めて思うんです」